「昭和三十年代後半に、万能機械がわが国に入り、ガラスコップが日産三十万個も生産されるようになり、強く握れば潰れるようなコップが充満して、文化を考え守ろうとする人達の心を不安にしたのでした。そして一介のガラス工人に白羽の矢が立てられたのが、《倉敷ガラス》の起源であり、気まぐれな思いつきだけの仕事ではありませんでした。」―小谷真三『うつわ 倉敷ガラス四十年』より。民藝を代表するガラス「倉敷ガラス」の始まりは、小谷栄次さんのお父様である小谷真三さんが、ある民藝関係者から受けた"メキシコのガラスをもとに、コップを作ってほしい"という突然の依頼でした。

コップの誕生

"ゆがんでいてもいい。カタチが揃ってなくてもいい。人の心がこもったコップを"という申し出に、親父は最初ひどく戸惑ったようです。ガラス製品はたとえ試作でもたいへんな資本と時間がかかります。それまでうちはクリスマスツリーを飾るガラス玉を作っていて、コップ作りなど思いも寄らぬものでした。それでも、親父はガラスの工程と言えば分担作業で、複数の工人によって行われるのが一般的だった時代に、「スタジオ・ガラス」と呼ばれるひとりですべての工程を行えるしくみを自ら考えだし、コップ作りに取り組みます。

当時僕はまだ幼くて詳しいことは覚えていませんが、親父はとにかく仕事、仕事で... 子供の日も、夏休みもあったものでなく、小さい頃にいっしょに遊んだという記憶はありません。経済的にもたいへん苦しい時代がつづいたようです。今のようにたくさんの情報があるわけでもなく、まったくの手探りの状態から、試行錯誤を何度も繰り返した後に、親父のコップは完成しました。

健康で、無駄がなく、真面目で、威張らない

親父のコップを大いに気に入ってくださったのが、倉敷民藝館初代館長であった外村吉之介先生でした。水島ガラスと呼ばれていたうちの工房を後に、「倉敷ガラス」と命名されたのも先生です。親父は会うたびに外村先生が熱く語られる民藝理論に勇気づけられ、次第に心の恐れやこだわりがなくなっていったと言います。

外村先生は民藝運動の実践者として、倉敷民藝館や熊本国際民藝館の館長に就任し、生涯にわたって民藝理論の啓蒙と普及に努められた方。外村先生と父との親交は先生が亡くなられるまでつづきました。父は恩師である外村先生から教わった「健康で、無駄がなく、真面目で、威張らない」という教訓を大切にしてきました。その精神を僕も守っていきたいです。

仕事は見て、覚えました

弟子入りをしたのは大学卒業後です。最初は昼間別の仕事をし、定時に退社して家に戻ってから、自宅にある工房で深夜まで過ごすという毎日。工房では隅に座って、じっと親父の作業を見ていました。そして、親父の作業が終わるのを待って、その日の最後に1時間ほど吹かせてもらっていました。親子と言えども、手とり足とり教えられるということは無かったです。それは親父の"仕事は見て盗み、自分のものにせよ"という考えからだったと思います。

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修行を始めて3年後に自分の窯をもち、自分の工房で仕事をしてきました。その工房で最初の6~7年間に吹かせてもらえたのは小鉢ばかり。その後、親父から小さいコップとぐい呑を作ってもいいという許可がでました。毎日深夜までガラスを吹きつづけ、1997(平成9)年に僕が初めての個展を開いたのを機に、自分のガラス製品を「倉敷ガラス」として世の中に出せるようになりました。

生活の道具として、役立つガラスを

ガラスを吹いて30年になります。僕の仕事の大半は、「数(かず)もの」と呼ばれる定番のコップや小鉢、ぐい呑みなど生活の道具としてのガラスです。そして、僕がコップ作りで大切にしてきたのは使う人が手にとりやすい大きさ、カタチ、重さです。

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「コップ小」の次に作っていいよと言われたのが、「コップ中」です。そして、比較的新しいのが「コップ大」で、氷をいっぱい入れてたっぷりジュースを飲みたいというお客様のリクエストに応えました。仕事を終えた後の楽しみは晩酌です。ビールを飲む時に使っているのは、自分で作った「コップ小」。千数百度の窯の前で仕事をした後のビールの旨さは格別です。

※小谷真三『うつわ 倉敷ガラス四十年』2004(平成16)年 発行所/民藝 融

※小谷真三(こだに しんぞう)1930(昭和5)年-
小谷栄次さんの父。倉敷ガラスの創始者であり、現在も現役で、自分のペースで仕事をつづけている。すべての工程をひとりで行う「スタジオ・ガラス」の先駆者であり、外村吉之介氏の民藝理論に共鳴してこの道を極め、倉敷にガラス工芸を定着させた。日本全国にファンをもつ。

※外村吉之介(とのむら きちのすけ)1898(明治31)年-1993(平成5)年
牧師をしながら民藝運動に参画、染織家として活躍。倉敷本染手織研究所を開設、倉敷と熊本で民藝館の創設に関与するなど、民藝理論の普及活動に努めた。

※民藝運動・・・大正末期に柳宗悦・河井寛次郎・浜田庄司らが興した生活文化運動。名も無き職人の手から生み出された日常の生活道具を「民藝」と名付け、使うことに忠実に作られたものに生じる健やかな美「用の美」を提唱した。

小谷栄次 (こだに えいじ) Profile

岡山県倉敷市

1961(昭和36) 年
倉敷ガラス創設者 小谷眞三氏の長男として生まれる
1983 (昭和58) 年
大阪芸術大学 芸術学部写真学科卒
1984 (昭和59) 年
吹きガラスを始める
1993(平成5) 年
岡山天満屋にて 「倉敷ガラス 眞三 / 栄次親子展」開催
1997(平成9)年
岡山天満屋にて 「倉敷ガラス 小谷栄次展」開催
2002 (平成14)年
日本民藝館展 初入選
2003 (平成15)年
日本民藝館展 奨励賞受賞
2006(平成18)年
倉敷芸術大学専門学校講師就任 (2010年退職)
2009 (平成21)年
倉敷民藝館賞受賞
2010 (平成22)年
倉敷市文化連盟奨励賞受賞
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